建設現場でがんばる若いゼネコンマンへ 〜その18〜

【最も苦しい時。そして、人生の転換点。(2)】

そんな状態が半年以上経ったある日、僕は遂に我満出来なくなりました。

現場の仕事が終わったある夜、他のメンバーが帰ったあとで、ひとり残った僕は、あまり現場に来れない統括所長にメールを送りました。

『担当所長と上手くいかないこと』
『配置替えをして欲しいこと』

更に、現場での仕事に疲れ切っていた僕は
『異動先は現場では無く、”内勤(支店勤務)”希望であること』

そして、
『希望が叶わず、今の状態が変わらないのであれば、退職するつもりであること』

を伝えました。

この時は、本気でそう思っていました。

当時は、「現場は花形であり、現場をきちんとやり遂げてこそ、将来的な出世がある。」と言われており、”現場から離れる申し出をする”ということは、その時点で、”出世の道から外れる”という意識はありました。
僕自身、大して出世なんて望んでいませんでしたが、周りは意外と、”現場でがんばることの美徳”を自分の出世の野心と絡めて語る人が多かったように思います。

でも、もしかしたら、そう語っていた人たちも、変わらない・変えられない自分の環境を無理矢理にでも肯定するしか無く、自分の感情を殺しながら日々仕事していたのかも?

そう言えば、同期が集まった時も、”自分の現場がどれほど過酷で、どれだけ自分が苦しい思いをしているか”を自虐ネタなんだけど、武勇伝のように語り、マウンティング合戦の様相でした。
ただこれが、”いい酒の肴”になったのは間違いありません。
こんなのは、100%健全では無いんですけどね。

“ゼネコンで、現場から落ちこぼれた奴は終わり”

そんなことは無かったんでしょうが、その時は完全にそう思い込んでいました。

更に、僕がやっていることは”会社にたてをつく”ことだと僕自身そう考えていて、「お前は要らない」と言われてしまえば、”辞めないといけない”と思っていました。

いずれにしても、”ドロップアウト”を覚悟して、自らその選択をした、ということでした。

声を上げること自体、『一世一代の大博打』でした。

有難いことに、統括所長の反応は早かったです。
メールをした翌日には電話を頂き、「話しをしよう」と言ってくださいました。

統括所長は僕の話を理解してくれて、「異動の手続きを進める」と仰ってくれました。
それからは、『こんなに早いの?』と、驚くほどのスピードで、異動になりました。
多分、2週間くらいだったと思います。
決まった時には、本当にホッとしました。

自分自身、ある意味、”腹を括って”声を上げた訳ですが、結果、よかったと思っています。
運が良かったとも言えると思いますが、やはり、『自分で決断し、勇気を持って一歩前に踏み出すことで、道を切り開ける』という体験が出来たのは、本当に貴重な体験になりました。

今だから、言えることかも知れませんが。

異動先は、僕の希望通り、”内勤”でした。
少し違ったのが、支店では無く、”本社の部署”でした。

いずれにしても、僕は現場から離れることになりました。
すごく、ホッとしました。
ただ、同時に、何とも言えない”敗北感”を感じていたのも事実です。
安心と悔しさが入り混じった複雑な感情が、しばらく続いていました。

実はこの後、しばらくして僕は、もう一度現場に戻ることになります。
しかし、その現場も、半年ほどで逃げることになります。

その時も、理由・事情はある訳ですが、その時は本当に心の底から『僕は現場に向かない』と思いました。

そして、逆に、現場で頑張る同期をはじめ、多くの人に対して、リスペクトを感じました。
それは、今でも変わりません。

『僕は、現場を担うことは出来ない。』
『現場でやれる奴はすごい。』

ならば、僕は、

『少しでも現場の役に立つようになりたい。』
『外からでも、現場の役に立つことは出来るはずだ。』
『現場を支えられる人間になりたい。』

これは、今も本当にそう思っています。


こうして、複雑な感情を抱えながら、僕は現場を離れました。
『この先、どうなるのか?』
全くわかりませんでした。

しかし、これから始まる本社での仕事が、僕の人生の方向を、大きく変えていきました。