建設現場でがんばる若いゼネコンマンへ 〜その3〜

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【大学院って、優秀な人が来るところだった】

僕は大学院に進み、4年で所属した研究室にそのままお世話になりました。
だけど、僕は優秀な学生では全くなかったですね。
なかなかの黒歴史なので、詳しい記憶は無くしたくらいです。

そもそも、大学院の進学の仕方が他の友人たちと違っていました。
当時、一般的に同じゼミの院生になるなら、ゼミの教授の推薦・承認があれば、簡単な面接程度で決まりでした。#確かそうだった
しかし、そこにも条件があって、”一定の成績を獲得していれば”です。

全く優秀では無かった僕は、この”一定の成績”が取れていなかったんですね。
なので、大学院に進むためには、筆記(学力)試験+面接試験をクリアしなければなりませんでした。
これがクリア出来なければ、4月以降の行き場が無いことになります。
何しろ、大学院に行く前提で、全く就職活動をしていなかったので。#頭、大丈夫か?

さすがに、試験に向けて勉強しましたが、その成果が出たんですかね?
無事に合格出来ました。
まあ、恐らく、ゼミの先生が「引き続き面倒見るから」ということで、受け入れてくれたものだと思います。
感謝しかありません。

こうしてなんとか、大学院生になりましたが、その後が厳しかった。
当たり前ですが、同級生はぐっと少なくなります。
同じ授業を受けるのは、他の研究室の構造専攻のメンバー含めても数人。
これが、メチャクチャ優秀な人たち。
僕は明らかに浮いた存在だったと思います。
『あ〜、大学院って優秀な人が来るところなんだな。』
この時の意識は、『ついていくことは諦めて、”落ちこぼれきらない”』ということが目標だったと記憶しています。

そんな感じで大学院生活がスタートしました。

大学院でもやることはやることは同じでした。
大学院の講義を受ける、研究をする。
その研究ですが、また、先生にある企業(ゼネコン)から共同研究の依頼が来ていました。
またまた企業の技術研究所での共同研究です。
僕はそれに手を挙げました。
自分で主体的にテーマを決めるなんて全く出来る訳がなかったので、与えてくれるならそれに乗っかるのは必然でした。

前年とは違う企業でしたので『この会社はどんな感じなんだろう?』と別な楽しみがありました。
前年の経験がよかったのか、最初から社員さんとのコミュニケーションは上手く出来たと思います。
ただ、ここでも2つのピンチがありました。

ひとつは、社員さんに僕のレベルの低さがいきなりバレないようにすること。
いきなりバレるとさすがに『先生の顔を潰すのでは?』と心配になったので、出来るだけバレるのを引き伸ばし、人間関係が出来てしまえば、「こんな奴」と思ってもらえるかも?と考えました。

もうひとつは、僕の班に4年生のゼミ生が2人もついたこと。
なので、その企業(技術研究所)には3人で通うことになりました。
院生は僕だけなので、当然のように窓口・責任者は僕になります。
それだけならまだいいんですが、この2人、出来るんですよね〜。
院生の方が、知識・学力が無いって、厳しいですよね?
だけど、良く考えて下さい。
一年しか違わないんですよ。
しかも、2人のうち1人は浪人してるので、歳は一緒です。
そんな関係の中で、”院生の方が出来て当たり前でしょ”という環境は厳しかったです。
もちろん、この2人にも僕のレベルの低さがいきなりバレないように出来るだけ引き伸ばし、「こんな奴なんだ」と思ってもらえる人間関係を作れるようにしました。#でも多分、すぐにバレてた

そうこうしながらも、この優秀なゼミ生と厳しくも温かい社員さんのご指導のもと、研究は順調に進み無事に一年を終え、ゼミ生は卒業していきました。
ちなみに。ゼミ生のひとりは共同研究を行ったこの会社に施工担当(現場配属)として入社していきました。

僕は翌年も同社で引き続き研究を続けることになりました。
この年はゼミ生は付かず、ひとりで通うことになりました。#正直気楽でした

無事に技術研究所での実験を終え、大学に帰り論文の作成になりました。

しかし、この論文作成が大きな問題で、今振り返ってみても、何の実験をしたかは覚えていますが、”どうやって書いたか?”、”書いている時の苦労は?”みたいな自分の精魂込めたエピソード的な記憶はほとんどありません。

その代わりに今思い出せるのは、これまた強烈な嫌な2つの記憶です。#論文の内容と関係無い

ひとつは、なんと”学会で研究内容を発表”したのです。
これは、僕の他の院生も行ったことなので、決して特別なことでは無かったのでしょう。
ノルマみたいなものでした。
当然、そんなことやりたい訳は無く、かと言って逃げることも出来なかった僕は、演台に立ち発表を行いました。
冷汗バンバンで用意した原稿を読んだだけだと思います。
もっとも恐れていた質疑応答も、残念ながらいくつか質問されました。
更に汗を噴き出しながら、”正に適当に”答えた記憶があります。
“何を聞かれ何を答えたか?”の記憶では無いです。
そんなやり取りをしたという記憶です。
その時の映像は抽象画のように記憶に留まっていますが、音声はありません。
『怖かった』ただそれだけの記憶です。

もうひとつは、”研究室で倒れた事件”です。
大学の研究室で倒れました。
貧血?過呼吸?
切っ掛けは、ゼミの先生との面談でした。
研究室の隣の教授室で行われたました。
恐らく、研究についての中間報告的なものだったと思います。
何しろ本質的に理解して研究を進められている訳では無かったので、着眼点や内容がとても薄かったと思います。
増して、そんなことも理解出来ていないので、まともな説明が出来るはずがありません。
助けてくれる人もいません。
当然、先生からは厳しいお叱りを受ける訳です。
決して激しい口調では無いですが、僕の不味さ加減を蕩々と諭される。
『これはまずい。しかし、どうしたら良いかわからない。』
地獄のような面談が終わり、極限のプレッシャーを感じながら、研究室に戻り友人と少し言葉を交わして・・・。

気がつくと、床に寝ていました。

友人が声を掛けます。
僕は何が起きたのか全くわかりませんでした。
起き上がろうとすると、「頭を打ってるから寝てろ」と言われました。
しばらくすると、救急隊が来ました。
意識はあったので、タンカでは無く車椅子に乗せられ、救急車へ。
病院で検査を受けることになりました。

幸い頭を含めて特に問題は見られず、その日に自宅に帰ることが出来ました。

この日、自宅で寝ながら思ったことを覚えています。
『いろんな人に迷惑かけちゃったな』
『気を失うって、あんな感じなんだ』
『俺はやっぱりメンタル弱いんだな』

『情けないな』

でも、

『死ななくてよかった』

改めて思い返しても、大学院2年生は完全な暗黒期ですね。#100%自分の責任
でも、こんな自分でありながら、”よくここまで生きてきた”と今の自分を褒めたくなります。#俺、偉い!

そんなことがありながらも、なんとか修士論文を書き上げ、論文発表を行い、修士の学位を頂くことが出来ました。
恐らく「授業に出て修士論文書いたから、まあ修了(卒業)ね」くらいの感じで大目に見て頂いたのだと思います。それか、最後はがんばったんですかね?
それでも、内容は決して褒められたものでは無かったのでしょう。
先生方の評価なので、真偽はわかりません。

当時の心境としては、マラソンに例えると、息も絶え絶え、フラフラになりながらゴールに倒れ込んだ、といった感じでした。全て終わった時、開放された時に、とにかくホッとしたのは覚えています。
ただ、全く力が足りてないのはわかっていたので、なんか申し訳ないような、後ろめたいような複雑な思いで大学を後にしました。

そして、卒業後は、大手と言われる建設会社に就職しました。何とか就職は出来たんですね〜。

次回は、この就活について、少し触れたいと思います。

※本記事ベースのVTube動画です。→ https://youtu.be/knvebttm-l4