死の概念が変わる?!〜亡くなった娘とバーチャルで「再会」〜

【亡くなった娘とバーチャルで「再会」、母親の映像がネットで反響 韓国】
https://www.afpbb.com/articles/-/3268475?act=all

このような見出しの記事を見ました。

『韓国のテレビ番組で、高度なバーチャルリアリティー(仮想現実、VR)により、亡くなった6歳の娘と涙ながらに「再会」する母親の映像が放送され、ネット上で反響を呼んでいる。』とのこと。

多くの視聴者は、母親に深い同情を示し、この着想を支持。
一方で、『このドキュメンタリーが個々人の苦悩を食い物にすることになる。悲しみに打ちひしがれた母親が、亡くなった娘に会いたいと思うのは理解できるが、問題は、放送局側が視聴率を稼ぐため、子を失って弱った母親を利用したことにある』の声も。

プロデューサーの一人は、『VR技術が「愛する人を記憶にとどめる新たな方法」を提示した』という。

愛する人を亡くすことは、とても苦しいですよね。
家族はもちろん、恋人・友人・自分にとって大切な人を失うことは、辛く悲しく苦しいことです。

そんな時、失ったはずの人が目の前に現れたらどんなに嬉しいか。
しかも、声が聞こえて触れた感触もある。
会話が出来る。
こんな嬉しいことは無いでしょう。

しかし、このVR・AR・MR技術は、それを可能にしそうです。
今回のVR技術がどこまでのものだったか、正確にはわかりませんが、これが更に進化したら、現実空間に仮想人物を登場させることが可能になると思います(既にその技術はあるかもですが、僕自身、専門家では無いので、”僕の知る限り”という注釈付きで、話を進めさせて頂きます。)。

しかも、その人がAIにより、タイムリーに会話、コミュニケーションが取れるとしたら。

更に、仮にその人の記憶や意識がどこかにバックアップされていて、AIにインストールされ、その人の人格・趣味嗜好の通りに、会話や立ち振る舞いをしたとしたら。

更に更に、現実空間(自分の生きている空間)の時間の流れに従って、その人の外見も進化(歳を取る)としたら。

もはやそれは”人”なのでは無いでしょうか?

自分から見て、果たしてその人は”死んでいる”、”この世にいない人だ”と言えるのでしょうか?

もちろん、出来ないことも沢山あると思います。
ちょっと考えると、まず、食事が出来ないですよね?
一緒に食べている状況は(映像として)作り出せると思いますが、ヴァーチャルなその人は実際に食べることは無いので。
しかし、それは些細なことですね。
現実の世界でも割と各人がそれぞれの時間を生きていると思います。
仕事や学校、個人的なコミュニティ。
家族と一緒に暮らしていても、24時間365日、同じ時間同じ空間で同じ活動をすることはほぼ無いでしょう。
つまり、自分が見たい・会いたい時、感じたい時にその人の存在に触れられれば、もはやその人は”現実に存在する”と同じことになると思います。

この技術が更に進化し確立され、社会に実装された時、”死”というものの概念が大きく変わるのでは無いか?と思いました。
そして、自分の死はもちろん恐いですが、実はそれよりも『他人の死を目の当たりにし、失うことの辛さ悲しさ苦しさを味わいたく無い』という恐れもまた大きいのでは?と感じました。

しかし、この技術を使えるならば”大切な人を亡くすことが回避される心の安定感”が得られるかも知れませんが、同時に人としての”心の成長”を奪ってしまう気もします。
どちらが、良いのでしょうかね?

そして、そうなれば僕もどこかでバックアップされ、誰かの目の前に現れるかも知れません。
もし、その時にそれで誰かの心が少しでも軽くなるなら、それはそれで嬉しいと感じてしまったのも事実です。

ただ、人格・記憶・意識・趣味嗜好をバックアップされ、ダウンロードされた”その人”は『僕』なんですかね?

それはそれで、興味はありますが(笑)!

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